◎教祖生誕の日。変人とはこれが本当というところを貫くこと。お道の信心はその気になれば難しいところがない。お道には戒律めいたものはない。何をしてもよい(人間が人間らしくの原型)そして、末々繁盛いたし、あいよかけよで立ち行く世界顕現を目指しとする。目指しがないと信心が展開しない。
%1久富繁雄氏の参拝姿。
%2教祖生誕祭。
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昭和四十三年九月二十九日朝の御理解
X御理解第七十三節「変人になれ。変人にならぬと信心はできぬ。変人というは。直いことぞ。」
金光様の御信心を頂こうとするならまず変人にならねば、金光様の信心は分かりもせず、頂きもできません。変人にならなければいけません。
変人というのは人が赤というのにしろ、人が白というのに赤というように、そういう人を一般では変人と申します。ね、ふうがじん、じゅうげぇもん、というふうにいうですね。けれども、ここでいう教祖が仰っておられるところの「変人」というのは、「変人とは直いことぞ。」とはっきりとおっしゃっておられる。直いというのは真っ直いということ、ですから、金光様の信心を本当に身につけようといえば、まず自分自身が真っ直い、まともな、真っ直い私にならなければ、真っ直い私になることに努めなければ。
%Vまずいうなれば立派な人間を目指さねばならないということ。真の人というてもいいかもしれません。真の人にならなければならない。しかもその真の人を目指すだけではなくて、これが本当だと、こうすることが本当だと思うたら、人が笑うても、悪口を言うても、そういうことに惑わされることなく、自分がこれが本当だと思うことを実行できる人にならなければならん。
%Vそういうところを教祖は変人とおっしゃったんだと思います。いわゆる【】ではなくてですね。真の人間真の人を目指させてもらうというだけではなくて、そういう真の人間を目指させて頂くと同時に、これが本当だと、これが本当だと思うたことはそれを貫かせてもらう。「こげなことしよったんじゃ、これが本当だと思うけれども、こげなことしよったら人が笑うから、人が悪口を言うから、」これが本当だと分かっておりながら、本当なことにできないようでは金光様の御信心は出来んということになる。だから、そこんところをやり抜いていくから、場合によっては変人だなということになるかもしれません。
%1ね、私はいつも朝晩のことを思うのですが、最近皆さん【】ばかりですから、不思議なことでもないようですけれども、なら土居の久富さんたちですね、朝の御祈念、夜の御祈念に必ず参ってみえますよ。それもちゃあんと帰ったらすぐ百姓着に着替えて畑に出なさらなければならない人たちなんです。やっぱりきちっと背広を着こんでネクタイをしてみえるですよね。けれども、神様の前に出るのにはそうすることが本当だと思われるから、そうされるんですよ。
%1ひょっとすると近所の人たちが「はあ毎日毎日背広どん着てから、毎日毎日いきよってろう」といわれる人たちが、ひょっとしてあるかもしれませんよね。ですから、百姓さんなら百姓さんの姿でお参りしてもよいのです。いけんということはない。けれども信心が分かってくれば分かってくるほどに、というて紋付きつけて来いというわけじゃないけれども、その時、その時にこれが神様の前に出る服装としては、これだけのことはさせてもらわなければあいすまんというような、それが本当だと思うから、やはり貫くんです。ね、私は本当にそれを感心と思います。
%1それはささいなことでありましても、それが貫けれるということ、「金光様に参るちゃおおごつの、そげん【】どん背広着てからネクタイまではめちいかやんなら」そげんいう人が必ずあるです。いわんでも、そういう風に思いよる人があるです。
そういう中に、それを敢然として、「この取り入れの忙しかて参らんでんよかろうもん」という人があるかもしれません。けれども貫くところは貫き通しておられるところに変人ぶりを発揮しておられるのです。ね、これはひとつの例です。これが本当だと思うことを貫くこと。
立派な人間を目指す、真の人を目指すと同時に、すぐいことぞとおっしゃるから、これが直いこと、真っ直いと分かったら、これが本当だと思うたら人が何というてもそれを貫くところにやはり変人ということになってくるかもしれません。ね、だから世の中は本当のことをすることが変人と思われ、いわれするように、世の中というのは、現代の世の中というのが間違った世の中であるというのがいえます。まともなこと、本当なことをするのが変人といわねばならないほどに、世の中は真っ直いことをしてないということです。
%V%Yそこにあっていわば金光様の御信心をさせて頂くものは、直いということを貫かせてもらうこと、「変人にならんと信心はできぬ。」これは大変厳しいことでです。「変人にならんと信心はできぬ」とおっしゃっておられる。金光様の御信心はただ参ったり拝んだり、お願いをしたり、お願いをしたことがおかげを頂いた、それだけが金光様の御信心と思うたら大間違い。金光様がここで言うておられるところの信心は、次に私が申します、大変な事柄がですね、願いであり目的であるからここんところをやり抜かねばいけんのです。そして、実を言うと私の願いでもあり、神様の願いでもある。
立教神伝の一番最後のところにこうございます。
%V%U「神も助かり氏子も立ち行く氏子あっての神神あっての氏子」もちろんここも大事であります。けれども本当私どもが、私ども願いとするところはどこかというとですね。「氏子繁盛いたし末々親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く」ということ、「氏子繁盛いたし」と、これは皆さんが願いに願っておられるところでございましょうが、しかも末々、末々というのは親の代より子の代、子の代より孫の代という意味なんです。
%V%U「私だん死んでしまえば子供や孫のこたあ分らんけん」というようなことではいけん。自分の代だけおかげ頂きゃよかというようなことではいけん。私どもの子供や孫の子々孫々に繁盛していくもとを私どもが作っとかないかん。しかも親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く世界を顕現していくというほどの大変な素晴らしいことを目指しとする信心ですから変人にならなければそういう素晴らしい目指し、目的があってもそれを遂行していく。それを世の中に現していくということが出来んのです。
%V金光様の御信心とは、こういう大変な、また、素晴らしいことを私どもが、御道の信奉者の一人一人がそこんところを頂いて、それを、そういう世界を顕現していく、そういう世界を作り広めていくということにあるのです。現してゆくということにあるのです。金光様の御信心は。そしてそれは、私どもの願いでもあるでしょうが、実を言うと、どうですか。
%Vここに私は、ただ信心、信心というけれども、金光様の御信心の独壇場があると思うのです。ね、「氏子繁盛いたし」人間の世界に繁盛の道が開かれる。しかもそれが末々、日勝り月勝り年勝り代勝り末々、親の代より子の代、子の代より孫の代、いよいよ繁盛していくそういう道。親にかかり子にかかり。あいよかけよで立ち行く世界の顕現されていくということがお互いの信心の目指しであると同時に、あなたがたの信心の目指しというものをいっぺん思うてみて下さい。
「私はそういうところに目指しをおいとるじゃろうか」「うちは自分の商売が繁盛すればいいと思うておる、病気が治りさえすればいいと思いよる」であるとすると、金光様の信心からもとることになります。ただ繁盛しさえすればよいというのじゃない。その繁盛が、神も助かり氏子も立ち行くところのおかげ、しかも末々繁盛していくことの基礎というか、そういう基礎を作らせて頂くことをおたがいが願いとしての信心。そういうことを願いとしての信心、ちょっと理屈っぽくなりましたかね、分かりますでしょうか。
%V金光様の御信心を頂いておれば、年々歳々、または親の代より子の代と繁盛していくなと、みんなにも認めてもらい分かってもらえるような道を開けというのである。「はあ、大坪さんの代はおかげいただきよったけれども、子供さんの時代になったら」いうなら潰れたと。ま、いうようなことでは、そういうようなことはたくさんあるです。ここの信心を頂いとっても。それが結局目指しがなかったからです。
「先代の時にはあの教会の総代までしちゃった、ところが子供さんの時には信心の毛もほの毛もなかごとならっしゃった、もちろん家も傾いて今じゃどこにござるか分らん」というようなことがたくさんありますよ。金光様の御信心を頂いとっても。
けれども結局今日私が申しておりますようにですね、変人を目指さず、末々繁盛していくというところの目指しというものがなかったからですよ。
ね、だから目先目先のというところをよく申されますが、たしかに目先目先のおかげで幻惑され、惑わされ、それでことよしとする信心では、これは金光様の信心にもとる。それは金光様の御信心じゃなくても、その程度のことは頂けるかもしれない。けれども私どもここに御理解でもいうておられますように「変人になれ変人にならぬと信心はできぬ、変人とは直いことぞ」とおっしゃる、変人になることは、これは直いということはそれは貫かせて頂くというような信心、まずは私になること。
ね、それがいわば立派な人間を目指すことであり、真の人を目指すことである。そういう目指しをもって信心をさせてもらい、しかも私どもが目指させて頂いている信心の目的目標というのはどこにあるかというと、「神も助かり氏子も立ち行く氏子あっての神神あって氏子繁盛いたし末々親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く」という世界。
%Vそういう世界がまずは大坪一家なら大坪一家から現されていかなければならない。堤さんなら堤さん一家の上に現されていかなければならない。そういうおかげが。ね、それが子供に伝わり孫に伝わっていくという、そういう信心を私どもが頂いておかなければ、金光様の信心ばしござるけん、毎日参りござるけん末々繁盛になっていくということでは決してありません。ね、ところがそういう例えば高度な目指しというものじゃなくても、目先目先のことでもです、御参りをしてお願いをしておかげを頂くでしょう。ですからそれに甘んじてそれに腰かけちゃならんということなんです。
そこで思わんならんことは、子々孫々に至るまでがですね、子孫に残るような繁盛ですね。おかげを頂くために自分の目的というものを、方向というものを方向づけておかねければ、後からついてくるものが反対の方向に、御利益だけの方に向いておったんではおかげにならん。
%U私はとくにここんところを「氏子繁盛いたし」というところ、これはみんなが願っておることなんですよ。「氏子繁盛いたし」というところ、しかもその繁盛がです、「末々」というところまで、末々繁盛していくところの道というもの、繁盛していくおかげというもの、「末々繁盛いたし親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く」
%U金光教の信心の理想郷というものはね、そういう境地を、そういう世界を目指すことなんだ、世界新の平和を願われるでしょう、皆さんが、世界総氏子の助かりを願われるでしょう、拝詞を奉読されるでしょう、読まれますね。それを神様に聞いて頂くわけでしょう。世界総氏子の身上安全、世界真の平和、それを願われるということなんですよ。それを具体的にいうわけなんです。
%Uその例えば平和なら平和、総氏子身の上安全ということのですね、その内容がです、氏子繁盛いたし末々親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く世界、そういう立ち行く世界が顕現されていくような平和であり、身の上安全でなからなければならないということなんです。
そのためにどうでも皆さんここに頂かなければならないことは、おたがいが変人を目指さなければならないということなんです。「変人になれ変人にならぬと信心はできぬ、変人というは直いことぞ」と、
「金光様の信心ちゃ窮屈なこっちゃあるなあ、」と、よそから見たら思われることがあるかもしれん、「こげん朝からはよう参らないかん、わたしどんが信心はひまん時参りゃよか。お供えやらいっちょんせんでよか。」なるほどそういうふういいう人もあるかもしれん。金光様の信心は毎朝早ようから参らないかん。けれども今申しますように、私どもがそういうような大変な、私どもが高度な命題を目指しての信心、またいうならばいよいよ変人にならせて頂く、いよいよ真の人にならせて頂くということ。金光様の御信心はね。
%V例えば立派な人になるということ、変人になるということはどういうことかというと決して窮屈なことじゃないです。ある宗教ではあげんしちゃならんということがあるでしょうが。金光様の御信心はそげなことはなか。何をしてもいい。ただしそれは、泥棒してもいいちうような意味じゃないですよ。
%V「はあ金光様の先生がなにしたっちゃよかといいなさったけんで」と、井筒屋へんに行って、帯ばがばっともってくるごたるこっちゃ、どんこんでけんけんですね。それがなんでんもっていきよんなさる。久保山先生がなにしたっちゃよかけんていわっしゃったけんちいうならどんされんですけれども、その意味じゃない。
%V同時にどういことかというと、何を食べてもよかということなんです。もう少し分かりやすくいうなら。何をしてもよいということ。何々教はお酒を飲んじゃならん。何々教は生くさけば食べちゃならん。そういうむつかしい信心じゃない。いうならば自由奔走。飲みたいものを飲み、頂きたいものを頂き、したいことをさせてもらえれる信心です。金光様の御信心は。
%Vけれども、その中に一貫しておらなければならんのは変人であり、真の人である。いうならどういう贅沢なら贅沢と思われるようなことでも、できれるようになったらさせて頂くことがおかげなんだ。金光様の御信心では。ね。金光様の御信心をすれば酒ものまれん、なまくさきも食べられん。なまくさきも大いによい。酒も頂いてかんまん。
そこで私どもがここで変人ということなんです。真の人を目指すということはどういうようなことかと、ここで私が申しますように、まず神様を信じれれる人、[「信心」、「真心」真心の人、「神心」かみごころ]、神ごころの強い私にならせて頂くということ。
そういう私どもが信心というものを、またそういうひとつの理想郷というものを目指して、しかもこれが本当だということを分かったら、そのことを敢然とやり抜いていく精神をいよいよ頂いていくということ。そういう精進努力をさせて頂きながら、「繁盛いたし末々親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く」というようなおかげの理想郷を目指し、そういうおかげを願っておたがいが信心をさせて頂かなければならないということでございます。
むつかしかったでしょうか。けれどね、漠然とでもいい、金光様の御信心というのはそういう願いのもとにおたがいが信心させて頂いておるんだということをお互い分からないけん、知っておかねばいけん。
ただお取次を頂いてお願いをして、商売が繁盛する、病気が治った。不思議なこっちゃある。というようなおかげを皆さんが頂いていかれても、それは子々孫々には残らないということ。親の代より子の代という繁盛にはなっていかないということ。いわゆる「親にかかり子にかかり」ということにはなっていかないということ。「神も助かり氏子も助かり」ということにはなっていかないということ。
ね、ですから私どもがそういう願いとしての完璧な願い。だから完璧な信心とか、完璧な人というのはむつかしいけれども、完璧な願い。完璧な理想、これだけは私は完璧なものをもっとかなければいかんと思う。間違いのない、誰が何というても、いつの時代でも狂わない、間違いのない。その完璧な願いを、そういう願いにたっての、それをふんまえての信心、そして、病気を人間関係を経済関係を、さまざまな人間の願いであるところの願いもさせて頂き、また頂いて行くところのおかげも頂きながら、そういう間違いのない完璧な願いを立ててからの信心、
%Uそして金光様の御信心でいうとそういう信心、教祖様という方はそういう信心を、天地の親神様から「世の中に難儀な氏子あり取次助けてやってくれ」というのは、そういうことを知らない氏子を難儀な氏子というておられる。子々孫々にまで伝わっていけれる、しかも繁盛していけれる、末々繁盛していけれるそういう道を知らない氏子を難儀な氏子と、世の中にはそういう難儀な氏子がたくさんある。いろいろ信心はしよるけれども、実意丁寧な信心はしよるけれども、そういことを知らない氏子があるから、それを取次助けてやってくれというのが立教神伝なのです。
そういう素晴らしいことを人間の世界に初めて分からせて下さり見せて下さったのですけれども、信心しながらそこを教えてもらいよっても、それをほけのごとしとったり、それを知らんやったりじゃおしいでしょう。
今日はそういう教祖様の御生誕の日です。お生まれになった日です。ですから心から、そのことを祝福させて頂く日、めいめいが金光様の信心を頂いておったということが何と有難いことであったであろうか。
先日竹葉会で私、最後のところの入らせて頂いた。福岡の秋永嘉朗さんの奥さんが発表しておりました。「何が有難いというても、主人が信心を頂いておったということ、そして私も一緒に信心をさせて頂けれるということが一番有難い」ということを発表しておるです。ですからそこにどういう難儀な問題が起こりましても主人が信心を頂いておってくれるということ、私もその信心ができるということを思うたら何にもなくなる。というほどに信心を有難いものにしておるのです。
私は本当にあの人の、実感しましたですね。信心は頂いとるばってん信心がかえってじゃまになるというような人があるんですよ。信心しとらんがいいばってんか。「信心しとらんならこういう窮屈な思いばしとらんばってん」というようなことで、かえって信心がじゃまになっておる人がある。信心しとるけんでぐうぐういうてこらえとる。そういう信心ではいけない。
信心を頂いとったということが、しかも主人が信心をしてくれるということが、もうどういうことがあってもそれを思うただけで有難いんだと、そういう信心をこの世の中に現して下さった御方が金光教祖である。
%2その金光教祖がお生まれになって日である。そのことを私どもがです、あなたがもしおられなかったならば私ども、これは大坪のことをいうてもいい、大坪一家があったかなかったかすら分からない。教祖様あって今日の私がある。そのことを心の底からお礼を申し上げる。そのことをお礼申し上げる今日はお祭りが今日は十時からございます。
%2教祖様は取り分け年寄りを大事にせよと教えられる。そこでここでは毎年、ここの敬親会の方を中心に、または信心はないけれども村うちのお年寄りの方たちを、今日七十名から集まられます。別に大したことはできませんですけれども、お弁当を頂いて頂いて、そして、余興なども見て頂こうと計画されております。ですからお年寄りだけの生誕祭ではありません。もう信奉者あげての生誕祭なのです。年寄りだけの生誕祭にならないようにみんなも、協力というより、おかげ頂かなければなりません。
%2十六才から三十五才までの男女の青年の方たちが青年の大会が久留米の教会でございますために、朝の八時か八時半からあちらに参ります、ですからいつもサービス係でありましたその青年の方たちがおりませんから、みんなが協力して頂きませんと、せっかくお年寄りの方たちがみえて、お年寄りの方一人一人についとってよかくらいに私は思いますが、それは出来んにしましても、とにかくけが過ちのないように、またはせっかくおいで頂くからお年寄りの方に喜んで頂くようなおかげを頂きたい。
%2それがとりもなおさず教祖様への御恩返しの一端、金光様に喜んで頂くことだと私は信じております。生誕祭には年寄りの方たちに喜んでもらうためのことがいろいろに計画されたわけでございますからどうぞ御協力お願いします。